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模型鉄道の線路端
「鉄道とテレビドラマ」
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昨夏、名鉄が『My Raildaysキャンペーン』と称
して、名鉄利用で経験した心に残るエピソードを
募集し、際立った話にはテレビCM化をするとした
ポスターが、駅で観られました。
鉄道利用のイメージアップの映像が、創作では
なく実体験の生の声から作られることは、大いに
歓迎ですが、いままでどうして、そう云ったこと
をしてこなかったのかと、残念でなりません。何
故って、エピソードを惹き立てる名わき役の列車
たちが、随分引退してしまっているからです。
ここ最近は、特に毎週観ようと決めたドラマは
『鉄子の育て方』位なものでしたが、昔はある脚
本家の作品は、積極的に観ようとしておりました
。
その脚本家は、私がまだ子供のころ、『想いで
づくり』というドラマを書き、主人公の女性が、
小田急ロマンスカーの車内で、喫茶サービスの、
ウェイトレスとして働いているという設定であっ
たため、頻繁にロマンスカーが登場するので、観
はじめたのでしたが、『想いでづくり』は人気を
を博し、脚本家の出世作となりました。その後、
『ふぞろいの林檎たち』というドラマを書いて、
トレンディードラマのはしりとなり、名脚本家の
地位を不動のものとしました。その脚本家の名は
、『山田 太一』 氏であります。
氏の作品には、よく秀逸な情景描写が織り込ま
れます。特にストーリー上重要なセリフがなく、
音楽と映像のみで時間経過を表す場面で、『想いで
づくり』では、ザンフィルというグループの奏で
る、パンフルートの曲をBGMに、小田急ロマンス
カーの車内で働いている様子が、描写されたりす
るのです。
あるドラマでは、夜の通勤電車の車内で、笑顔
を振りまく赤ん坊の傍に外を向いて立つ若い女性
が、恋に傷ついて夜の街の車窓風景に涙を流す…
というシーンがあったりして、非常に心揺さぶら
れたものです。
もう一方、高校の頃の担任の先生がドラマ好き
で、ホームルームの時間で紹介してくれたのが、
『北の国から』を代表作に持つ、『倉本 聰』氏で
す。
『昨日、悲別で…』という作品を観せて頂きま
したが、北海道の斜陽の炭鉱の架空の街、『悲別
(かなしべつ)』から、有名ダンサーになろうと
東京に出てきた青年のもとに、母親から毎日のよ
うに、悲別であった他愛のない出来事を綴った手
紙が届く。「昨日、悲別で――」「昨日、悲別で…」
青年は、返事を書かないが、堪らない思いで手紙
を読んでいる。と云う話でした。
ドラマの撮影では、俳優が脚本の意を汲んで、
アドリブを混えるなどして自由に演じる事が普通
の様なれど、山田太一氏は、脚本のセリフを一字
一句変えないで演じることを要求されていたそう
で、それでもちゃんと良いドラマになるのですか
ら、やはり超一流です。
個人的な感想になるかもしれませんが、近頃は
『鉄子の育て方』のように、鉄道ファンが劇中に
出てくる作品も、作られるようになってきました
が、そういう作品に出てくる鉄道描写が、今一つ
魅力的に見えないので、劇中の鉄道ファンのハイ
テンションぶりが浮いて見えて、残念に感じます
。なんだか口惜しい感じもします。昔の名脚本家
が描写して見せた鉄道シーンの方が、好印象とし
て魅力を感じるのです。鉄道愛好が、市民権を得
てきたことは、確かではありますが、反面、子供
向きではない、落ち着いた趣の鉄道描写に出会う
ことが、少なくなってきているのではないでしょ
うか?
山田太一氏は、脳出血の御病気を患い、「もう
新しい脚本は書けない。」と、昨夏に引退宣言を
されました。山田節のドラマが、もう見られない
と思うと、まったく残念です。
中部地方を舞台にした山田太一ドラマのラスト
シーンで、遠州鉄道の単線の駅について、倍賞美
津子さんが、「小さいけど、いい駅ね…!」と言う
場面があります。これが例えば、鉄道模型レイア
ウトで、ローカル線の小駅を作って、展示披露し
ている処で、観客の女性から同じセリフ、「小さい
けどいい駅ね…!」と言われたら、製作の苦労も
吹っ飛び、その当日は勿論のこと、向こう一週間
くらい、元気一杯で居られるかもしれませんね!
『鉄子』を売りにしたアイドルも現れた現代で
すから、モデラーたらしの言葉を放つ芸能人も、
現れないとも限りません。鉄道ビデオの世界でも
、ファンの意を汲んだ映像作品が、昔と比べると
随分作られるようになってきました。昔日に、「
いいなぁ!」と感心した映像作品を憶えている現代
の作家たちが、きっと、ファンを唸らせる作品を
作ってくれるに違いありません。
昔とは違いますけれども、これからのメディア
やドラマに、期待を膨らますこの頃です。
(完)
◆ 蒲郡線と西尾線の末端区間の存続のために、西尾市と蒲郡市が協力して取り組んでいます。名鉄5000形以降の(Old)SR車
での装いが印象的だったツートンカラーの旧特急色が、西尾市制70周年を記念して 6000形に施され、西蒲線で走行をはじめました。
この旧特急色の初 お目見えは 昭和26年の3850形(模型写真の旧塗色右側の車輛)からで、その4両編成版ともいうべき3900形の
第4編成にて、走行機器等の各種テストをおこなって、軽量セミモノコックボディー カルダンドライブの新性能車、ラビットライナー旧5000形の登場へとつながってゆきます。他の車種より早く駅についてしまうために、定刻前に発車せぬよう異例の注意喚起が出ました。
その後、増結用に増備された5200形までは、冷房装置がありませんでしたが、5200形の前面デザイン及び基本窓配置を継承した5500形は日本初の特別料金のいらない冷房電車として好評を博しました。その好評ぶりに甘んじず、名鉄は7000形パノラマカー開発に着手します。
(模型写真左側の車輛が5500形。屋根上にずらりと並んだ四角い箱が冷房装置で、国鉄特急「こだま」とケーシングが違うが中身は同型)
この頃の5000番台特急車を総称して SR(スーパーロマンス)車 と呼んだりしておりました。5500形は冷房装置分の重量増加のため
1955年登場の5000形ほどの俊足ぶりにはなりませんでしたが、1961年登場のパノラマカーは、台車が空気ばねのモノに変わったほかは、
走り装置に関して5500形から大きな変更点がなく、併結しての運用もしばしば見られました。昭和末期の急行型として登場した
(New)SR車こと、5300形と5700形、さらにその先1987年登場の 1000形パノラマスーパーも床下機器の機能構成は変わらず、
特急に特別車と一般席車が出来た最初の頃はパノラマスーパーの一般席車両の製造前で、1000形と5500形との併結運用もありました。
パノラマカー登場の頃は、スカーレットはパノラマカーのみでしたが1965年頃より次の特急色(パノラマ車以外)への模索が始まり、
1970年頃にパノラマカーと同じ名鉄スカーレットに落ち着いて、「紅い名鉄電車」といったイメージが形成されてゆくのです。
5500形の中間車が全廃となって残る先頭車の動向に注目が集まった2003年に、復刻旧塗装となって(Old)SR車の終焉を飾りました。
6000形については、登場時より名鉄スカーレットの単色塗りで、白帯が入ったのも蒲郡線運用が最初です。今回のツートンカラーも
6000形車輌にとってはまさに最初、 そして最後の機会となるでしょう。